大手広告代理店の女性社員が過労自殺した問題が波紋を呼び、長時間労働やサービス残業をどのように抑制するかが大きな社会問題となっています。長時間労働や残業代なしで働くサービス残業は日本のあらゆる業界に存在する問題です。学習塾業界にも昔から長時間労働やサービス残業は存在しています。
去年このサイトを開設した後、全国の学習塾で働く人たちからの意見や相談がきていますが、やはり一番多いのが長時間労働とサービス残業に関するものです。そこで今回は学習塾での長時間労働について考えてみます。

日本企業の長時間労働の背景

日本企業の長時間労働の背景としてよく指摘されるのが、日本の企業組織では『できるだけ長時間働き、休日出勤や時間外労働もいとわない人間』が、『優秀で会社への貢献度が高い人材』とみなされ、会社からも同僚からも高く評価されるということです。また成果主義の考え方が浸透した結果、企業組織の中では、仕事でより良い成績をあげ、会社に大きく貢献する者が優秀であり、会社に貢献できない人間は無用だという価値基準を誰もが常に意識するようになったことも要因として考えられます。

 個別指導塾の賃金未払い問題

おととし、大手個別指導塾に労働基準監督署から大学生のアルバイト講師への賃金未払いなどに関する是正勧告が出されたことは、塾業界の方ならご存知だと思います。「コマ給」では授業をした時間分だけ賃金が支払われます。ところが実際には、担当講師は授業が始まる前に出勤して、その日の授業の準備を行い、従業後には授業報告書の作成や教室責任者との面談などがあります。その結果、授業前後にトータルすると30分から1時間程度拘束されるのが普通です。労働基準監督署はこの授業前後の時間も労働時間であると認め、この部分の賃金を支払うように命令を出しました。
ところで、私はこのニュースを見たとき正直最初は「生徒のことを第一に考えるなら授業前後の少しの時間くらい無給でもいいのではないの」と思いました。生徒の成績アップのためなら多少の時間外労働をしても、その時間が無給でも当然だと思っている人は、実は塾業界には多いのではないでしょうか。実はここに学習塾で長時間労働やサービス残業が発生する要因があります。

学習塾の労働哲学

学習塾で働きたいと応募してくる人は、大学生のアルバイト講師でも正社員の方でも、みな生徒思いで責任感が強く、生徒の成績を上げ志望校に合格させることに対して強い使命感を持っている人が多いです。性格はどちらかというとおせっかい焼きで、ボランティア精神に満ちた人も多くいます。自分の仕事に対して責任感や使命感を持つことは、どんな職業でも当てはまるかもしれませんが、特に学習塾に応募してくる人には顕著に見られる特徴です。

そして塾業界には、昔から「生徒のために」という魔法の言葉が存在します。塾業界で働く者なら、この言葉を使われると正社員・学生アルバイトを問わず多少の無理をしても賃金や手当が出なくても教師としての使命感から率先して働きます。これは塾教師のみならず学校の先生でも、人を教える職業に就いていれば当然誰もが持っている(持つべき)資質だと思います。

しかしこの「生徒のために」という言葉が学習塾の職場内で目的化し、拡大解釈されて使用された場合、どうなるのか?

本来の授業以外に、午前中や終業後の会議、早朝の校門前配布、授業研修、休日の保護者懇談会や各種説明会など、やるべき業務がどんどん増えていっても、「生徒のために」行う業務なので、当然その部分の賃金は支払われません。
これに異議や疑問を言うと「あなたは生徒のことを考えないのか?」「自分のことばかり言うのは生徒への熱意が足りないからだ!」「時間分だけ働けばいいと思っている人は塾業界には向かない」「生徒のためを思うのなら給与のことでゴタゴタ言うな!」などと言われるのがオチでしょう。私も昔、こうしたことを言って学生講師を叱った経験があります。学習塾でアルバイトする学生の中には教員志望の人も多いので、これを言われると「教師失格」 のレッテルを貼られたも同然で、大きなショックを受けます。そして賃金や労働時間に対する不満を言わなくなります。

塾業界の職場には、つねに生徒へのサービスを最優先に考えるのであれば、学習塾で働く人は長時間労働やサービス残業を行うのは当然であり、それに異議や疑問を唱えてはいけない。そのような人は生徒のことを考えない人であり、そもそも学習塾で働くべきではないという労働哲学が存在します。

学習塾の長時間労働の背景

私は昔から塾業界に存在する、この独特の労働哲学が、塾業界における長時間労働やサービス残業、未払い賃金などを発生させる温床になっているように思うのです。したがってこれは塾業界で働くすべての人にかかわる問題なのではと考えるようになりました。断っておきますが、私は 「生徒のために」という考えを否定するつもりは全くありません。 私も日々、生徒の成績アップ、志望校合格のためを思って頑張っています。しかし一方で塾業界はこの「生徒のために」という言葉を上手に利用して利益を上げ、大きく成長してきたことも事実です。

最近、私はこの「生徒のために」という言葉が、単に「人を働かせるための方便」や「長時間労働やサービス残業への賃金未払いに対する言い訳」として安易に使われ過ぎているように思います。私は会社(経営者)が社員や学生講師を思うままに働かせるためにこの言葉を使うことや、 労働条件や職場環境に対する不満を封じ込めるために使われることに、強い危惧を感じています。

教師が「生徒のために」一生懸命働いて成績を上げ、志望校に合格させることは、教師の使命であると言っても過言ではありません。しかしこれと残業や休日労働に対して、会社(経営者)が賃金を支払うことは本来、全く別のことです。
塾業界で働く人の資質として、生徒のことを思うのであれば、たとえ賃金が出なくても残業や休日労働をこなし、つねに生徒のことを考え、生徒ためなら進んで自分を犠牲にできることが求められているとしたら・・・
生徒のためを思うのであれば、自分が勤務する職場の労働条件や環境に問題があっても、それに疑問や異議を持たずに、ひたすら我慢することを求められているとしたら・・・

これでは「ブラック業界」と言われても仕方ないでしょう。

労働組合の活動により、eisuでは昔のように無茶な時間外労働や休日労働、連続勤務はなくなりました。しかし何年か前まではこれらが普通に行われていました。その当時の団体交渉で、eisuの上層部の人で「社員は皆いつも生徒のことを第一に考えているので、生徒のために勝手に働いてしまうんです」と言った方がいましたが、この言葉が全てを表しています。生徒のために勝手に働いて、それで社員が倒れたら誰が責任を取るのでしょうか?

「生徒の成績向上のため」「生徒の志望校合格のため」「生徒の成長を通して社会に貢献するため」という教師の自尊心をくすぐる言葉を使い、教師の責任感や使命感をくすぐればあとは社員やアルバイト講師が時間外や休日でも勝手に働いてくれる。これに賃金を支払う必要はないと、会社(経営者)が考えているとすれば、大きな間違いでしょう。このような考え方は今の時代、社会が認めません。こうした古い考え方や体質を改めない限り、塾業界が今後、成長発展していくことは難しいと思います。

学習塾の「新しい働き方」

個別指導塾への労働基準監督署の是正勧告の件は、従来のように会社(経営者)が教師の熱意や使命感を利用することで思い通りに働かせて賃金をピンハネして利益を上げるという、塾業界の「古い」ビジネスモデルが事実上破綻していることを示す一つの実例だと考えます。今や、塾業界は従来の考え方による社員やアルバイトの「働かせ方」を改め、残業や休日に働いた分には正当な賃金や手当をつける。 労働基準法や労働契約法などの労働諸法規を遵守する。無駄な会議や研修を減らして労働時間を見直すなど、働く者のワークライフバランスを考慮する方向に転換すべき時期にきていると思います。

ここ数年、社内研修などで「社員は意識改革すべきだ」ということが声高に言われます。しかし今後の塾業界のことを真剣に考えるのであれば、経営者こそ意識改革すべきでしょう。 時代から取り残されないためにも、経営者は働く人の意見に誠実に耳を傾け、職場の労働条件や環境を整備し、アルバイトを含む従業員が安心して働ける職場を創ることが必要だと思います。同時に、塾業界で働く私たち自身も従来の古い働き方(労働哲学)をもうそろそろ改めて、ワークライフバランスを考えた新しい働き方を模索するべきではないでしょうか。

学習塾における長時間労働、サービス残業の問題は「古くて新しい問題」です。もしこれを改善せず放置していれば、今後「ブラック企業」 のレッテルを貼られる学習塾や、 経営者とアルバイトを含む従業員間の労使紛争が増加していくのではないかと懸念しています。

そういう意味では、今、学習塾業界はひとつの「曲がり角」に来ていると思います。