塾講師30歳定年説の背景

最近、企業が大卒初任給を引き上げたというニュースを聞きます。空前の人手不足で、各社とも初任給をアップすることで優秀な若手人材を確保しようとしのぎを削っています。中には初任給30万以上を提示する会社もあります。

学習塾業界も新卒者の初任給を上げて人材を確保しようとする動きは顕著で、リクナビやマイナビなどの求人サイトを見ても毎年のように新卒初任給を上げている会社も多いです。

しかし新卒者の初任給アップに比べ、すでに勤務している人の給与はあまり上がっていないという話もよく聞きます。会社の募集段階つまり入口の賃金だけが上がり、前からその会社で働いている人の賃金がさほど上がらないのであれば働く人のモチベーションの低下につながります。

労働組合の立場から言うと、新卒者だけでなく、すでにそこで働いている人の賃金もバランスよく上がっていくのがベストだと思います。

初任給引き上げへの懸念

懸念されるのが、たとえばある会社が新卒初任給30万を提示して社員を募集した場合、その条件で入社した人は30万から昇給がスタートすることになり、その後の定期昇給が問題なくできるのか? 前からその職場で働いている人の定期昇給でのバランスが取れるのか? の2点です。

初任給を高くして人材を募集し入社後賃金がほとんど上がらないなら、これは求人詐欺と同じです。また初任給を高く設定したことで、前からいる社員の賃金がほとんど上がらない。中高年のベテラン社員のリストラなどが進むなら問題です。

資本力があり高収益かつ将来性のある会社なら、新卒者とすでに働いている社員の賃金とのバランスを取りながら上手にやることも可能かもしれませんが、これができる企業は限られます。

塾業界でも大卒初任給をアップして人材を募集する傾向が顕著ですが、学習塾の労働組合としては、すでにそこで働いている人との賃金バランスが取れるのかという点で大きな懸念があります。

なぜなら塾業界には昔から『塾講師30歳定年説』というものがあるからです。この言葉は業界歴が長い人なら一度は聞いたことがあると思います。

塾講師30歳定年説とは

塾講師30歳定年説とは、塾講師は20代は賃金水準や昇給率は高いが、30歳を過ぎると昇給率、給与とも頭打ちになる。30歳以降の年収は低く抑えられるという傾向を表したものです。30歳になると会社から退職強要され無理やり退職させられるということではありません。

塾業界は昔から人の入れ替わりが激しい業界です。これは学習塾特有の労働環境が背景ですが、もう一つ大きな背景があります。実は学習塾は労働者の長期就労を前提としない業種だからです。

この背景は、塾業界が大きく成長し、塾講師の「正社員」採用が一般的になった80~90年代の人材採用、塾講師になった人の特徴、経営側のメリットに関する構造的な要因から成立したものです。

塾講師30歳定年説の背景①(塾講師の採用)

大手塾も最初はどこも個人塾からスタートしています。それが70年代~80年代の第2次ベビーブームによる生徒数急増と受験戦争が過熱した時期に校舎を展開して生徒数・売上を増やし、個人塾から法人化して急成長を遂げた企業です。

校舎を出せばすぐに生徒が集まり、学習塾の売上も右肩上がりに増えていった時代でした。大手から地方の学習塾まで、業績拡大を見越して新卒や中途採用で人材を躍起になって募集していました。新卒向け就職情報誌に学習塾各社の募集広告が目立つようになったのもちょうど80年代半ばです。

もともと塾講師の中心は学生アルバイトでした。大学生バイトの勤続年数は最大4年で、この頃の塾講師は数年で交代していくのが普通でした。でも個人塾から法人化して会社組織になると、新校舎の展開や業務拡大を安定して進めるためには「正社員」の塾講師が必要になります。

塾講師30歳定年説の背景②(塾講師の特徴)

80~90年代にはどんな人が学習塾に正社員として採用され、塾講師として働いていたのでしょうか? 新卒や中途採用も含めて次のような人が多かったです。

① 教員採用試験に不合格となり、再受験期間中の仕事として塾講師を選んだ人。

② 公務員や各種資格試験を目指すため、その期間中の仕事として塾講師を選んだ人。

③ 海外留学や大学院進学等の目的があり、その資金を得るため塾講師を選んだ人。

④ 自分で学習塾を起業したいという意思を持ち、ノウハウを学ぶため塾講師になった人。

⑤ 寿退社までの期間、社会人経験等を積むために塾講師を選んだ女性。

塾講師は夜の仕事なので午前中~昼過ぎは自由に使えたので、①~③の理由で塾講師になった人もいました。この頃の塾業界は今のような長時間労働やうつ病になるほど過酷な労働も少なく給与も比較的高かったです。当時も労働基準法違反はありましたが・・

ところで上記①~⑤を見ると、80~90年代に学習塾で勤務していた塾講師には、ある共通した特徴があります。それは原則として2~5年程度の短期雇用を前提とする就労であることです。

つまり当時は学習塾に正社員として就職しても、定年まで勤務する前提で就職する人は少なく、夢や目的があり、それを実現させる期間の収入を確保するために塾講師になった人が多かったことです。

こうした学習塾成長期における塾講師の特徴(短期の就労形態)が、経営者の思惑と結びつき、20代の若い人を採用し、短期間で次々と人が入れ替わることを前提とする雇用慣行が成立します。

塾講師30歳定年説の背景③(経営側のメリット)

このような若年層の短期雇用を前提とする就労は、学習塾の経営者にも大きなメリットがあります。

企業が正社員を雇用した場合、賃金、賞与、各種手当はもちろん、定期昇給も行う必要があります。また正社員として採用すれば、その人が中途退職しない限り原則として定年まで雇用する必要があります。

日本の雇用慣行では、20代は比較的低賃金で雇用できますが、30代、40代と勤続年数を重ねるに従って賃金を上げる必要があります。そうすると人件費にかかる負担が重くのしかかってきます。

経営者にとって、雇用した正社員講師が数年~長くても10年程度で退職することを前提とすれば、将来の総人件費を抑えることができるし、現在の人件費も低く抑えることができます。

つまり、こうした若年層中心の短期雇用は学習塾の経営者にとって・・

① 若い人は低賃金で雇えるので現在の人件費負担を減らせる。

② 若い人は生徒と年齢が近いので人気が得やすい。指導も手を抜かず一生懸命やる。

③ 若い先生が多いと学校教育との差別化が図りやすい。

④ 若い人は経営者や会社の方針等に反発しにくく、管理しやすい。

など人件費以外に労働者管理や生徒募集についてのメリットもあります。生徒も自分の父親・母親ほどの先生に教えてもらうよりも、年齢が近い「お兄さん・お姉さん」先生に教わりたいと思う人が多いのではないでしょうか。

こうした「短期間で人が入れ替わる雇用」はブラック企業の雇用形態と一致しますが、塾業界が最初からブラック化を意図していた訳ではなく、ブラック化する要素を多分に含んでいたと言えます。

塾講師30歳定年説の塾業界への影響

『塾講師30歳定年説』を言い換えれば、塾業界独特の長期就労を前提としない雇用慣行と説明できます。短期間で人が入れ替わることを前提とする雇用慣行は塾業界の業界体質や個々の会社の社内制度に大きな影を落としています。

詳細は『塾講師が短期間で辞めるのはなぜか? その背景(後編)』をお読み下さい。

これを根拠にすれば、令和になっても、学習塾でブラック労働がなぜ減らないのか? 学習塾では働きやすい職場環境の整備がどうして進まないのか? がすべて説明できます。

短期雇用が前提なら労働者が長期的に働き続けられるような社内制度を作る必要はないし、職場をホワイト化すれば短期で人が入れ替わらなくなり、将来の人件費負担が重くなるからです。

つまり短期間で人が入れ替わるように、古い社内制度やシステムを放置しておいたほうが、会社にとっては現在・将来の人件費負担を減らせるし、職場の新陳代謝も図ることができるのでメリットが大きいのです。

こうした塾業界独特の雇用慣行を理解すれば、令和の時代においても、労働環境に問題のある学習塾や、労働者を使い捨てする学習塾が存在するのもわかるし、塾業界が「ブラック」と言われるようになった理由もわかると思います。

30年以上前なら「自分の夢や目標を実現するため、一時的に塾講師となって働く」という働き方も働く人のニーズにマッチしたかもしれませんが、現代では、男性も女性も長く働け、キャリアアップを図れる職場を求める現状からは大きく乖離しており、雇用のミスマッチだと思います。

ひとつ追加すると、80~90年代には顧客である生徒もたくさんいて、学習塾の収益も増加していたので「生徒が大人になり第3次ベビーブームが起こればさらに利益拡大できる。そうなれば将来の人件費負担増を回避でき、社員を長期雇用できる」と考えた経営者もいたと思います。でも結局、第3次ベビーブームは起きず、少子化も進行しています。見込みは大きく外れましたね・・

最近のニュースを見ると、人材不足や売り手市場により、企業が若く優秀な人材を確保するため初任給を引き上げることが一種の流行になっているように思えてきます。おそらく相当無理をして初任給を引き上げている企業もあるでしょう。

塾業界に目を移せば、今後は少子化による利益減少が進む中で、高い初任給を基準にしたベースアップをどのように行うのか? 前から働いている社員との賃金バランスをどう取るのか? といったことをしっかり考えていく必要があります。もし目先のことしか考えていないのなら早晩破綻するかもしれません。

塾業界も入口の賃金を高くするよりも、30歳以降になっても収入が上がり、40代、50代になっても男性、女性ともに安心して生活でき、働き続けられるよう社内制度を変革することにより『塾講師30歳定年説』を払拭する方向に進むべきだと思います。

 

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